なぜ、今、日本でDXが議論されるのか

公開: 2021年4月15日

更新: 2021年5月21日

あらまし

「なぜ、今、日本社会でDXが議論になっている」のであろうか。これまでの社会では大きな問題なく運用されてきた社会の様々な慣習や制度が、これまでの社会のように適切に働かなくなり始めていることが、原因であると考える。世界は、新しい秩序の体系を再構築して、それに基づいて法体系を見直し、法改正をしなければならない状況にある。さらに、そのような法改正と、社会慣習の見直しによって起こる様々な制度上の変更は、20世紀後半に極度に発達した情報処理の様々な局面に、変化・修正の対応を迫る結果になることが予想される。重要なことは、情報システムの観点から社会の制度を見るのではなく、新しい社会制度の観点から、情報システムの在り方を見直す必要があることである。

ここでは、そのような視点から、21世紀の人間社会が直面している問題について論じてみる。

はじめに

最近、テレビや新聞などで、「DX」と言う言葉をよく聞く。その文脈から推測すると、「社会の情報化」と関係しているようである。情報産業分野の企業などでは、それがあたかも、それらの企業の経営戦略に直結する、またはそれらの企業のこれからの収益を左右するような、技術に関係している話のように聞こえる。また、IT系の企業では、「DX人材の確保」が話題になっていると、よく聞く。

数十年前になるが、現代のフランスの哲学者、アンドレ・コントスポンビルは、「資本主義に徳はあるか」と題した講演の中で、20世紀の世界にある4つの秩序について議論した。それらは、人間の理性に基づいた科学・技術の秩序、人間社会の安定した運営のための法の秩序、人間が『正しく生きる』ための倫理の秩序、そして人間が他者を敬って社会を営むための博愛の秩序である。博愛の秩序は、キリスト教精神の秩序を言い換えたものである。コントスポンビルも、20世紀の世界では、キリスト教の博愛精神がこの世界に共通した普遍的秩序とは主張できなかったのであろう。彼自身は無神論者のようである。世界は、21世紀になって、それまでの世界秩序の枠組みだけでは、適切に社会を運営できなくなっている。理性が支配する科学・技術の秩序に属するとされる「経済」の発展は、資本家による利潤の追求を最大の原動力とする強欲資本主義を生みだし、人間社会の経済格差が許容できないほどの極限に達しているからである。世界は、新しい秩序の体系を模索し始めている。

そもそも、DXは、「デジタル・トランスフォーメーション(digital transformation)」を略記するときに使われる表現であるとされている。これは、コンピュータとインターネットを結び付けた情報技術の利用を、社会的な水準まで進めて、インターネットに接続したコンピュータやスマートフォン同士を結び付け、単なるデータの交換だけでなく、コンピュータやスマートフォンによるデータ処理の結果の交換も可能にして、全体として、より高度な情報処理を自動的に行えるようにした効率的な社会を作ろうとしていることを意味している。この考え自身は、北欧の社会学者が、最初に問題提起したことが契機となって、世界に広まったものであると言われている。

例えば、新型コロナウイルスのまん延で落ち込み始めた経済を活性化するため、2020年4月に日本政府は、全ての国民と、日本に在住する人々に対して、一人当たり10万円の給付金を支給することとした。この時、支給窓口となった地方公共団体では、各世帯の世帯主から提出された申請書の受付作業を、地方公共団体の職員などの人手で、実施せざるを得なかった。このため、大変な給付コストと手間(時間)をかけることとなった。人口が密集した大都市に住む住民からは、「申請から給付までの時間がかかり過ぎる」との苦情も少なくなかったと報道されていた。

この問題に直面した菅首相は、首相就任後直ぐに、「デジタル庁」を新設して、省庁間の情報交換に電子通信を利用し、法律の制定から、実施までの時間を短縮すべきであると提案した。これは、財務省が既に導入している「マイナンバーカード制度」を活用すれば、給付金処理も直ぐにできたはずであったとの考えがあったからであろう。しかし、それは本当だろうか。単に、普及が進まないマイナンバーカードの急速な普及を狙った財務省の作文に踊らされているだけではないのだろうか。いずれにしろ、菅首相は、財務省と経済産業省などの官僚が作成した提案に基づいて、デジタル庁の設置を主張し始めたのかも知れない。DXは、それを正当化するための道具に利用されたのであろう。

同じ頃、似たような主旨の給付金を配布した米国社会では、トランプ前大統領の政権下、議会で法案が通過した数週間後、全ての国民に小切手が届けられた。米国社会には、マイナンバーカードはない。米国社会に以前からあるのは、古い「社会保障番号」だけである。米国に住む全ての人々は、国民であるかないかに関わらず、「社会保障番号」を取得し、預金口座の開設や税金の処理のために、その番号を開示することが要求されている。つまり、日本の国税庁に相当するIRS(Internal; Revenue Service)は、全ての合法的に働く人々の収入や、現金で支払われた支出の情報を、得ることができるようになっている。ただし、税金の徴収は、各個人からの自由意思による申告に基づいて実施されている。マイナンバーカードや省庁間の電子情報の共有と、給付金配布までの所要時間には、直接的な関係はない。

トランプ政権は、このIRSが使っている「社会保障番号」で登録されている個人個人の所得情報に基づいて給付金の配布を、各個人宛に自動的に行った。米国政府が配布した給付金も、米国民であるかどうかに関係なく、「社会保障番号」を登録していて、納税金額計算の基礎となった前年度の収入が、一定額に満たないと判断される全ての人々に対して、給付金が自動的に小切手で支給された。その対象者には、米国で働いた経験のある日本人の多くも、含まれていた。実際に、その小切手を受け取った日本人の中には、米国議会で、そのような給付金の審議が行われたことを知らず、戸惑った人もいた。

なぜ、この米国政府と同じようなことを、日本政府は、米国政府と同じように行えなかったのだろうか。そこには、それぞれの社会の裏に潜んだ複雑な問題が絡み合っている。日本の法律は、米国政府とは違って、政府が多数の国民に給付金を配布する事態を想定していないのである。これまでの日本政府も、何回か給付金を配布した例はあるが、常に給付は単発的で、それほど急ぐ必要はなかった。また、これまで日本社会には「マイナンバー制度」のようなものは存在せず、主として、地方公共団体が住民票や戸籍に基づいて事務処理をするしかなかった。今回、地方公共団体を悩ませたのは、本人からの申請に基づいて、その情報を住民票と突き合わせることであったと聞く。住民基本台帳へのアクセスは、地方公共団体の職員でも、情報セキュリティ管理の観点から、限定されているからであった。つまり、個人情報保護法の縛りがかかっていたからである。

似たような事態は、行政組織ではない民間企業でも発生するはずである。特に大企業であれば、社内に蓄積されている個人情報は、社員の情報であれ、顧客の情報であれ、社内の個人情報の管理規定に定められた目的以外の利用は、認められていない。つまり、緊急時でも、社内における情報管理の責任者の承認と、情報管理責任者(CIO)に指名されている役員等の承認・決裁を受けなければ、一時的であっても情報へのアクセス権は設定されない。そのような予め決められた目的外の個人情報の利用は、その情報の所有者である本人の了解がなければ、不可能であり、裁判になった場合、企業の個人情報管理責任が問われるからである。

日本社会もDXに対応すべきと唱えている人々は、2020年5月に10万円の給付の準備が始まってから、国民への配布が完了した2020年9月までの数カ月間の時間を短縮することが、日本の課題であると主張しているのであろうか。単に、それを目的とするだけであれば、従来からの情報技術を上手に活用すれば、簡単にできたことであろう。多分、そうだとすれば、本当の障害は、日本国内にいる有能な情報技術者の絶対数が、決定的に不足していたことだけであろう。むしろ、DXの必要性は、「未知の問題」に対しても有効活用ができる、日本社会の基礎を形作る情報基盤を構築し、あらゆるデータを、必要な時に短時間で収集し、膨大な量のデータを高速に処理して、必要とされる問題の解決策を見出し、決まった解決策を情報システムを活用して、素早く実施できる、社会の情報基盤を構築することが真の狙いではないだろうか。そのためには、個人的な情報を、個人情報を切り離して、集約するための仕組み、その過程で悪意のある第三者に、情報が洩れないような仕組みが組み込まれている通信網、個々のデータを蓄積している情報機器が故障で動作できなくても、それを代替できる仕掛けが整った情報・通信基盤の構築が課題となる。それらがなければ、これまでの情報システム技術の単純な延長に過ぎない。

では「なぜ、今、日本社会でDXが議論されている」のであろうか。著者は、これまでの社会では大きな問題なしに運用されてきた社会の様々な慣習や制度が、20世紀までの社会のようには効果的・効率的に、与えられた時間の範囲では、働かなくなり始めていることが、原因であると考えている。それほど、処理すべきデータは、大量にかつ幅広く、いたる所に分散している。世界は、新しい秩序の体系を再構築して、それに基づいて法体系を見直し、必要な法改正をしなければならない状況に置かれている。さらに、そのような法改正と、社会慣習の見直しによって生じる様々な制度の改正は、その実践を支えるために整備されてきた、複雑に絡み合った情報処理システムの様々な機能の実現に、修正や変更、さらには大々的な作り変えを迫る結果になることが予想されるからである。重要なことは、情報システムの観点から社会の制度を見るのではなく、新しい社会制度の観点から、情報システムの在り方を見直す必要があることである。つまり、新しい社会制度の全体像が明確にならなければ、個々の情報システムの開発や変更の議論はできない。さらに、そのような分散情報システムの設計や開発に従事できる有能な人材を、どうやって育成するのかも議論しておかなければならない。

ここでは、そのような視点から、21世紀の世界と日本社会が直面している問題について論じてみる。

(つづく)