なぜ、今、日本でDXが議論されるのか

公開: 2021年4月15日

更新: 2021年5月30日

あらまし

DXの議論を狭い視野で考えると、歴史的に見て、これまでに何回も話題になった、社会の情報化、インターネット技術の利用、情報システムの統合などの議論と変わらない議論に終わる。日本社会に突きつけられている問題は、表面的なものではなく、過去に学び、日本人の行動や日本社会の制度を変えることである。「何を、どう、変えるべき」なのかを考えてみる。

その裏に隠れている問題〜何が社会的な課題か

1980年代、社会の退潮が明らかになり始めていた米国では、一部の専門家に日本社会との違いについての調査研究が求められていた。このやり方は、第2次世界大戦が始まる前の米国で、多くの研究者達に日本研究が委託されたことと似ている。米国政府は危機に直面すると、必ず対処法を検討するために、対象となっている物事の専門的な調査研究を依頼する。第2次世界大戦前の例で言えば、ルース・ベネディクトの研究成果である「菊と刀」は、日本文化の調査報告をまとめて出版したものである。また、日本文学者であったドナルド・キーンは、日本の軍隊が送信する通信文の翻訳を行う任務を持った、日本語翻訳専門部隊の隊員として働いていた経験がある。米国では、日本語の研究を行い、短期間で日本語に精通した人材を育成する方法を研究し、戦争に先立って、その教育法を実践していたのである。

その1980年代の米国における日本研究で指摘されていたことの一つに、「日本人は変化を嫌う傾向が著しい」とする特徴があった。このことは、日本人研究者も、以前から指摘していた。第2次世界大戦直後にまとめられた中村元の「日本人の思惟方法」もその一例である。中村によれば、同一の血筋の子孫である天皇家が、千年以上に渡り、実質的に日本社会を支配できたのも、日本人のこの特徴が理由だと説明されている。中国社会も、日本以上に長い歴史をもつ社会ではあるが、国を統治する「王」は天が決めると信じられており、支配者一族も支配民族も、長い歴史の中で何度も変わっている。日本では、直接的に行政の責任を担う人や家族は歴史と共に、蘇我氏、藤原氏、平氏、源氏、足利氏、豊臣氏、徳川氏と変わっても、天皇家が統治すると言う点では、全く変化していない。この日本社会にある基本的な日本の制度や慣習は、米国の研究者達も注目したところである。

日本人は、江戸時代から明治の新政府に変わった時、行政上の統治者としての徳川幕府から、平安時代まで行政上の統治者であり国家の統治者であった天皇を、再び国家の統治者とした。明治政府は、行政機構を統合し、組織化するため、平安時代にあった官僚機構を真似た組織を作り上げた。つまり、日本の封建時代に行政機構として機能していた幕府と藩に基づく武家組織を解体し、新しい統一国家のための官僚機構を作り上げたのである。そのための高度な知識をもつ人材を養成するため、現在の東京大学が、1879年、日本の唯一の大学として設立された。これも、平安時代に中国の科挙の制度を見習って作られたやり方である。平安時代には、武力だけを担う組織であった武家社会が、封建時代には行政機能も担っていたが、明治時代になると、天皇の統治を支える武力集団として、新たに「日本軍」が設けられた。日本軍は、かつて封建時代に武家社会が、天皇家に代わって日本社会を実質的に統治しようとしたのと同じように、昭和になると軍部は日本社会全体を統治しようと考えるようになったのである。そして、日本は無謀な第2次世界大戦へと突入していった。貴族の近衛文麿や、昭和天皇自身も、この流れを止めることはできなかった。

1945年に米国を中心とした連合国との戦争に負けた日本は、占領軍によって、それまでの日本軍が実質的に統治する国家から、国民が選挙で選んだ内閣が統治する民主主義的な国家に変わることを強いられた。そのとき、占領軍と日本政府の中心人物の間で、天皇の処遇に対する妥協案が作り出された。それが、「天皇家を存続させるが、その統治権を剥奪する」とする象徴天皇制であった。この議論の過程で、日本政府代表者は、第2次世界大戦中に日本軍の首脳部が最後まで拘った「国体護持」の望みを、天皇家の解体によってことごとく破壊すれば、「日本国民は反乱を起こす」と主張し、占領軍司令部はその反乱を防ぐために、妥協し、米国大統領に「象徴天皇制」を認めさせたとされている。変化を極端に嫌う日本国民の特性を理解していた米国大統領や政府の高官は、この占領軍司令部の進言を受け入れたとされている。

1980年代の日本研究に基づき、1990年代の初めに作成された「日本の台頭を強く意識した米国の世界戦略」は、「米国が主導して世界的な秩序の変化を起こし、決定を先延ばしにする日本社会がその対応に苦慮する間に、新しい世界秩序の中で、ゆるぎない米国の立場を築く」と言うものであった。そのための具体的な政策の一つが、「円高・ドル安誘導政策」であった。その後、日本社会のインターネット網の貧弱さを突いた「電子商取引の振興」、そして、ぬるま湯につかっていた「金融」の自由化を促す政策などを次々と実施し、日本社会の根幹にゆさぶりをかけた。このとき、米国内の議論では、日米の教育制度の違いについては、全く焦点が当たっていなかった。それは、第2次世界大戦後に占領軍司令部が行った、6-3-3-4制を軸とした教育制度改革を実施したことによって、日本の教育制度が米国式の制度に転換されていたと認識していたからである。

しかし、戦前に始まった終身雇用制度が、戦後の日本社会にも生き続けたように、戦前の教育制度に根差した日本社会の教育の根底には、それほどの変化は生じなかった。これには、日本人教育者達の「伝統を守ろうとする」努力や工夫によるところが大きかった。実際に、教壇に立つ教員は、制度や教育内容が、戦後、新しいものに変わっても、具体的な教え方や、根本的な教育思想を変えることはしなかった。教員組織であった教員労働組合の位置付けにも、大きな変化は生じなかった。さらに言えば、働く人としての教員の位置付けは、戦後の民主化と地方自治の流れによって、戦前よりも強まったと言える。新しい教育内容の指針が出ても、教員の労働環境の保全を理由に、現場の教員たちは、その実施に強く抵抗できたからである。当時の文部省は、教員労働組合の意向を無視した教育制度の改革を実施することはできなくなっていた。

例えば、1990年代から小中学校に導入が考えられていた総合学習を中心とした「ゆとり教育」も、現場の教員にはその指導経験も技術もなかったため、しっかりと実践することはできなかった。特に、生徒の学習実績の評価と最終的な成績評価については、教員養成課程での指導がなかったため、現場では混乱を引き起こす事態が発生し、文部科学省は、当初の方針を撤回するしかなかった。同じ時期に進んでいた高等学校への新教科「情報」の導入に対する対応も、同じようであった。教科書ができても、それを教授できる人材はなく、急きょ、終身雇用制で余剰感のあった家庭科や理科、さらに数学担当の教員を再教育して、その任務に当たらせた。しかし、情報関係の知識がほとんどない人材に、教科書の内容を理解し、生徒を指導できる人材は、実質的にいなかった。従って、センター試験への新科目「情報」の導入は、高等学校校長会の要請によって、延期された。文部科学省は、現場教員の抵抗に屈したのである。

似たようなことは、1960年代の労働法の改定案審議の過程でも生じていた。雇用者側からは、世界情勢の変化に合わせて、終身雇用制から同一労働同一賃金制への移行の提案が出されていた。法案審議に先立って、産業界と労働界の代表者によって、同一労働同一賃金制導入に関する検討会が開催された。その検討会での議論の過程で、労働側の委員から、それまでの労働慣行では、社内での経験年数の異なる社員が、同一の作業に従事する場合、各作業者の社内での経験を踏まえて、給与を決定すると言う年功制が採用されていたが、同一労働同一賃金制では、二人の給与に差がほとんどなくなる可能性があるとの危惧が示された。この場合、年長者の社員の家庭生活を考えると、その家庭の経済状況を著しく悪化させることになる。このため、従業員が同一企業に長期間に渡って就業することを前提にした日本社会には、「同一労働同一賃金制はそぐわない」とする意見が大勢となり、制度の導入は立ち消えとなった。

日本社会の労働慣行では、社員の給与は能力給ではなく、社員の生活水準に合わせた「生活給」としての側面が強い。若い社員への給与は低く抑えられ、子供がいて、その教育などに生活費が必要な中年社員の給与は高く保たれ、定年に近づき、生活も安定している社員の給与は、再び、低く抑えられる傾向がある。そのため、同じ作業に従事していたとしても、勤続年数の長い社員の賃金は、勤続年数の短い社員と比較すると高くなるのである。企業側から見れば、終身雇用を前提とすれば、このやり方は、一時的に人件費の増大を防ぐことができる点で利点があった。さらに、日本の企業に一般的な退職金は、多くの場合、社員の勤続年数に応じて支払われる。これは、退職金が給与の一部を積み立て、退職時に企業側からの付加金と合算して支払われる慣習だったからである。この時、積立金相当分の利子計算が、社員の勤続年数に比例する例が多かった。企業からすれば、退職準備金の積立期間中の資金は、その企業による運用によって、その利益の一部分を、企業のマネーフローに組み込み、企業の資金繰りを改善する役割もあった。これは、企業が長期間存続すれば、企業と社員の双方にとって利益があった制度だと言える。

さらに、その雇用慣行の上に、政府は退職金を前提とした税制を構築した。その税制も、退職金そのものと連動して、勤続年数に反比例して税率が下がるように設定されていた。これによって、定年退職に満たない年月での退職は、税制的にも不利益になる制度が確立した。社会の様々な場面で、労働者の生活には、終身雇用を前提とした慣習が成立したのである。このことも関係して、日本社会では長きにわたって、労働者が一旦、ある企業へ就職すると、よほどの理由がない限り、自己都合で、その企業を退職しないことが普通であるとされるようになった。その意味でも、転職をすると賃金だけでなく、様々な不利益が発生する例が少なくなかった。このことが、日本社会における雇用の流動性を低く抑え、判例でも企業による労働者の解雇は、労働者にとって極端な不利益となるため、認められにくくなった。このことは、日本社会において、ますます終身雇用を優遇する状況を生み出し、長期的には、それが円高によって日本企業における労働コストを押し上げる要因となった。1990年代の中頃から、日本企業では一時的に、正社員の新規採用を抑える人事政策が採られるようになった。このことは、大学卒業者の「就職氷河期」を生み出した。

以上の議論から、日本社会における社会的変化を回避しようとする傾向が、社会的問題に対して根本的な解決策を探す意欲を失わせ、日本人の場当たり的で表面的な対症療法に終始させる傾向を生み出した。第2次世界大戦の敗戦後における憲法改正と、それに伴う各種新法の制定でも、この日本人に特徴的な態度が、時間を必要とする各種法律の根本的な検討よりも、時間を必要としない表面的な文言の修正の方が、良い問題の解決策であると思わせたのである。このことは、日本社会を、新しい時代の変化に柔軟に対応できる社会に、日本人自身の手で変革させる機会を失わさせた。それから70年以上が経過した今、蓄積された小手先の修正が積み重なった数多くの法律で運営されている日本社会は、社会の有り様と法体系の抜本的な見直しなしに、世界の変化に適切に対応できる国づくりができなくなっている。そのような抜本的な改革は、今を生きている多くの国民に多大な、苦痛をもたらすことが目に見えているからである。これからの時代を生きなければならない少数の若者以外、誰もその苦痛を、自ら、甘んじて受けようとはしないのである。昭和初期の軍事国家への道を進んだ誤りと似たような誤りを、今の日本は繰り返そうとしている。

(つづく)