なぜ、今、日本でDXが議論されるのか

公開: 2021年4月15日

更新: 2021年6月3日

あらまし

今、世界に必要なものは、「新しい秩序」である。それがどのような性質を持つべきであるかについて、現段階で世界的な合意はない。しかし、これまでの資本主義(強欲資本主義)の延長線上には、人類の繁栄はないことも認識されている。新しい社会には、市場を核とした経済と、そこから得られた富の公平な再配分の制度が必要である。そのために、高度に発達した情報技術を利用して、個人のプライバシーを守りながら、個々人が得た富を個別に把握し、社会全体での公平な富の再配分を計算し、それを実施できなければならない。それに対応するために、将来の社会で行われる人間の活動に関する情報を、必要十分な粒度で収集できる情報基盤が必要不可欠である。

それこそが、今、各国でデジタル・トランスフォーメーションが議論される理由であろう。我が国の産業界における現在のDXの議論は、まだ表面的であり、単なる情報技術の利用論の域を脱していない。ここにも、日本人にあるとされている「物事の本質を見ようとしない傾向」、「現実の個別の問題ばかりを見て、全体を見ようとしない傾向」、「社会的に大きな変化を嫌って、実施の容易な、副作用の小さな変更を好む傾向」が、にじみ出ている。

おわりに〜人々が幸福になるために情報技術をどう利用すべきか

これまでデジタル・トランスフォーメンション改革について、なぜそれが重要であり、なぜそれが世界中で議論されているかについて、著者の私見を述べて来た。要約すれば、産業革命が18世紀のイギリスで起きてから、世界中で社会の大改革が始まり、社会における富の配分の仕方に大きな変化が起きた。キリスト教の倫理観を基礎として、自由な市場における競争を核とした資本主義経済が成立し、社会の富は、封建時代までのような一部の人たちのものではなくなり、国中の全ての人々に分配されるようになった。このことは、各国における国内総生産を、毎年平均約2パーセントで成長させ、20世紀の終わりごろまで、人々の生活を豊かにした。

20世紀の終盤に入って、各国における豊かさは、資本の大きな余剰を生み出し、少しずつ富を偏在させるようになり、強欲資本主義は人々の間に許容できないほどの格差を生み出した。もともと「リバタリアン」が主張した、規制を最低限にした自由は、個々人が競争で勝ち取った資本の蓄積(財産)は、それぞれの人々の自由意思に基づいて社会へ還元されることを仮定していた。しかし、現実に起こったことは、個人の欲望は際限なく膨張し、必ずしも社会へ還元されるのではなく、その大部分が、さらに大きな資本を獲得するための原資に使われるようになり、格差は拡大する一方になった。国際NGOのオックスファムの2018年の報告によれば、世界の約78億人の富の82パーセントが世界人口のたった1パーセントの人々の手にあり、世界のほぼ半分の人々は、程度の差はあっても貧困状態(相対的貧困)に陥っている。

この我々が生きている社会に存在する格差は、現在の「資本主義を続ける限り、世界の経済成長は約束される」だろうとする考え方が、誤りである可能性を示している。少なくとも、ほとんどの人々には、経済成長の恩恵を受けられないばかりか、その逆の、社会における相対的貧困層を増大させる。それが、人間社会全体の経済的活力を失わせる原因となり、資本主義そのものも崩壊するかもしれないと主張する研究者も出現している。18世紀の世界にはなかったコンピュータと高速通信網によって、人類は歴史的に持ったことがない、人間以外の知的活動ができる機械を発明した。そして、現代の企業はそれらを駆使して、人間は、自分達が行える知的活動以上に効率的で、高速な意思決定を行えるようになりつつある。20世紀までは、人間しかできなかった意思決定活動を、機械に任せることで、より正確で高速に実行できる可能性がある。高速な処理は、一定の時間内に、より多くの情報を集め、分析して、より合理的な結論に導くことができるからである。

21世紀以後の世界では、企業活動には「人間の行為(労働)」が絶対の必要条件ではない。人間と機械の協業によって、より効果的で効率的な企業運営が可能になる。つまり、機械以上のことができない人間は、機械に取って替わられ、失業するのである。そのような状況では、社会には余剰な労働力が満ち溢れることになる。その人々を再教育し、機械よりも優れた能力を必要とする労働に就かせることは、各国の政府において、21世紀以降の世界では、重要な国家の政治課題になる。労働力は、もはや不足する時代ではなく、常に余剰が存在する時代が来るのである。20世紀の産業化社会では、国内の余剰労働力を、労働力が不足している産業や企業へと移転する労働政策が重要であった。それは、国内経済の活性化だけでなく、失業した労働者達の生活を守る意味でも重要であった。

21世紀の世界では、技術進歩によって簡単に人工知能の利用ができるようになった機械学習を応用すれば、人類にとっては解決策が未知の問題に対しても、原因と結果の情報さえ得ることができれば、最適と考えられる対応関係を機械が見出すことができる。その対応関係(答え)が、絶対に正しいとは言えないにしても、人間が不完全な情報に基づいて出す結論よりも、誤りである確率は小さくできる。株式の売買や結婚相手を探す問題で、人工知能技術が応用されるのは、このことが理由である。高速情報通信網を使って収集される大量の情報を利用して、それを処理するビッグデータと、「機械学習を利用する知的な情報の処理」(人工知能)は、これまでの社会では、人類が対応できなかった問題への対応を可能にする。そのような社会が成り立つとき、国家の政治的な課題は、「どうすれば人々を幸福にできるか」に集約されるであろう。

その意味でも、人間の労働は、企業活動にとって絶対に必要なものとは言えなくなっている。そのような社会で、企業が経済競争に勝って生き残り続けるために、機械と人間で構成する企業組織がどのようなものになり、そこで働く人々の雇用契約はどのようなものになれば良いかは、未知の問題である。さらに、その社会で活躍できる人材を育成するための高等教育はどのようなものであるべきか、その教育コストは社会の構成員によってどのように配分され、負担されるべきなのかは、より解決の難しい問題である。これに関連して、そのような人間と機械が共存する組織で働く労働者を育成するための初等・中等教育はどのようなものであるべきか、さらにその教育を行う教員人材はどのように育成されるべきなのかについては、現代の世界に存在するヒントはない。先進的な国々おいて、さまざまな実験的取り組みが始まったばかりである。

このような世界に必要なものは、「新しい秩序」である。それがどのようなものであるかについて、現時点で世界的な合意はない。しかし、これまでの資本主義の延長線上には、かつてのような人類の繁栄はないことも認識されている。新しい社会には、市場を核とした経済と、そこから得られた富の公平な再配分の仕組みが必要である。そのために、高度に発達した情報技術を利用して、個人のプライバシーを守りながらも個々人が得た富を個別に把握し、社会的に公平な富の再配分を決め、その再配分をしっかりと実施できなければならない。それに対応するため、社会で行われている人間の活動に関する様々な情報を、必要かつ十分な細かさで収集できる情報基盤が必要不可欠である。

これこそが、今、各国でデジタル・トランスフォーメーションが議論されている理由であろう。我が国の産業界における現在のDXの議論は、まだ表面的であり、これまでと同じく、単なる情報技術の利用論の域を脱していない。ここにも、日本人にあると指摘されている「物事の本質を見ようとしない傾向」、「現実の個別の問題ばかりを見て、全体を見ようとしない傾向」、「社会的に大きな変化を嫌って、実施の容易な、副作用の小さな変更を好む傾向」が、にじみ出ている。プログラマがよく言う「スパケッティ状態」に、日本の法律も制度も陥っている。これを是正するために、日本人は、変わらなければならない。しかし、米国の専門家達は「日本は変われない」と信じている。それが、米国人が見ている日本社会に適合する「ステレオタイプ」なのであろう。日本人に課せられているのは、これまでの日本では行えなかった、挑戦である。

(おわり)