王権神授説から社会契約論、そして民主主義


提供: 有限会社 工房 知の匠

文責: 技術顧問 大場 充

更新: 2025年8月17日

あらまし

王権神授説から社会契約論、そして民主主義

古代バビロニアで王国が誕生し、その統治の手段として文字による記録の方法が確立されました。粘土板に刻まれた「楔形文字」の発明です。この文字による情報の記録は、人類のその後の発展に大きな影響をもたらしました。それは、話し言葉では、個人の経験は、口述でしか他人に伝えることができなかったからです。書き言葉の発明は、その制約を取り除き、時間と距離を超えた情報の伝達を可能にしました。古代バビロニアのハムラビ王が制定した法は、「ハムラビ法典」として、今日にも伝えられています。そこには、社会の身分階層別の法が記されています。


図6. 農耕社会

このハムラビ法が公布された後、古代イランのツアラツストラは、アフラ・マツダを最高神とするゾロアスター教を唱え、一神教の神の概念と、その神から王権を与えられた王との関係を唱えました。これは、今日、「王権神授説」と呼ばれている考えで、国王が国民を統治する権力を持つ根拠を与えると言う意味で、中世・近代までの封建社会の根幹をなす思想となりました。また、一神教の考えは、ユダヤ教の成立過程でその倫理的な骨格を為すこととなりました。ただし、古代ギリシャの都市国家や、古代ローマ帝国のように、国を統治する為政者を選挙で決定する「民主主義」の制度を採用していた社会制度も、同時に存在していました。


図7. 封建社会

近代社会になって、王権を主体とした君主制の社会制度は、ヨーロッパ諸国では市民革命によって否定され、フランスでは国民に主権のある民主主義国家が確立されました。その過程では、イギリスの哲学者ホッブスや、フランスの哲学者ルソーなどによって、国民と社会との間の「社会契約」によって社会の制度を維持しようとする「社会契約論」の考えが提唱され、イギリスの思想家、ジョン・ロックによって、国王の権利の行使を制限する、民主主義の原則、すなわち、「個人の財産の保証」「個人の信教の自由」「個人の生命の保証」などを骨格とした原則が、提唱されました。これが、アメリカ合衆国を含めた、今日の民主主義国家の憲法の「ひな型」になりました。


図8. 王権神授説から社会契約説へ

1776年、新大陸に新しい国家、アメリカ合衆国が生まれました。この国は、近代のイギリス王国で迫害を受けていた清教徒たちが、自由を求めて、植民地であった北部アメリカ大陸のボストン近郊の地に移り住み、開拓を始めたことで建国が始まりました。そのため、キリスト教の教えに忠実で、国王の支配のない、プロテスタントの倫理観を中心とした国家の建設が、国民全体の総意でした。そのことは、建国当初は、極めて少数派であった、聖書の記述を忠実に解釈し、それが真実であると信じる「福音派」の思想が、少しずつ社会全体に普及し、テレビ放送による布教が一般化している今日、国民の約3分の1が「福音派」の教えに傾倒するようになって、社会全体の世論に多大な影響を与えるようになりました。

福音派は、旧約聖書を含めて、聖書の記述を「絶対的な真実である」と信じています。そのため、福音派の人々は、終末論と「最後の審判」を信じ、その「最後の審判」は、迫っていると信じています。その最後の審判のとき、ユダヤの人々は、神がユダヤの人々に約束した、エルサレムの地に居なければならないと考えています。このことは、今日、エルサレレムの地に住む、パレスチナの人々を、パレスチナの地から追い出すことを意味しています。今日のパレスチナ紛争で、アメリカ合衆国の政府が、イスラエル政府のやり方を否定せず、イスラエルに寛大な政策を採っている背景には、福音派の支援を受けている大統領が、イスラエル政府の動きを抑えられない状況にあることを物語っています。

福音派が、アメリカ合衆国の社会で、政治的な力を持ち始めたのは、1960年代に、共和党の大統領であったアイゼンハワー氏の時代からのようです。アイゼンハワー氏の後継者とされていたニクソン氏が、民主党の候補であったケネディ氏と戦った時、ニクソン氏は、福音派の指示を受けていましたが、当時の福音派の票は、現在ほど多くはありませんでした。しかし、今、その政治的な影響力は、無視できるものではなく、公立学校における「進化論」の教育、公的な場所での黒人差別、人工妊娠中絶の禁止などについては、政治家たちに反対するようにと、圧力をかけていました。保守的な思想を持つ、共和党の議員たちは、この福音派の働きかけを、受け入れる人々が多かったと言われています