なぜ、今、日本でDXが議論されるのか

公開: 2021年4月15日

更新: 2021年6月7日

あらまし

「なぜ、今、日本社会でDXが議論になっている」のであろうか。日本国内における議論を、かつて米国社会で行われた「大国の滅亡危機は乗り越えられるか」の議論、そして、その後の米国社会の再建の議論と対比して考えてみる。

なぜ、日本でDXが議論になるのか〜米国社会との比較

これまで議論してきたように、2000年以来、日本社会は20年以上にわたり、大きな問題に直面し、それをどう解決すべきかに悩んでいる。世界史上、どのような国家も、社会も、一度、大国として繁栄した国家・社会は、やがて没落し、ローマ帝国のような大帝国でも、国家としては歴史から姿を消すか、またはモンゴル帝国のように細々と生き残る道を歩む。1990年頃の米国社会では、その問題に注目が集まり、その世界史的な経験則が、歴史的な必然性に基づく「法則」であるのかどうかが、社会的な議論になった。「アメリカの時代は終わり、21世紀は日本の時代になる」と多くの米国民が考え始めていた。そのような状況の中でも、米国の有識者たちは、「なぜ米国の力が弱くなったのか」、「なぜ日本はこれほど強くなったのか」、「米国社会はどのように変わればよいのか」などについて、1980年代の初め頃から、研究や議論を続けていた。

その議論の中で、多くの研究者がたどり着いた結論は、産業についてだけ言えば、「日本企業が生産する製品の高い品質が日本の繁栄をもたらしている」であった。さらに、日本社会が「なぜそれほど高い品質の製品を生産できているのか」と言えば、それは、「日本社会では高い水準の義務教育によって、それを生み出せる人々が育てられているからである」と認識されていた。このことは、日本国民の識字率の高さなど、客観的な事実からも裏付けられていた。さらに、当時の日本社会における義務教育では、文字の読み書きだけでなく、基本的な計算能力の高さにも注目されており、日本では誰もが、最低限の学力をもって、「落ちこぼれ」なしに義務教育を終えていたと認識されていた。その反面、米国の研究者の中には、その日本社会が、「なぜ、ノーベル賞受賞者を数多く輩出できないのか」を議論する人もいた。

そのような研究や議論が進んで来ると、日本の公的な義務教育制度だけでなく、学習塾に大きく依存した基礎教育、例えば公文式教育の普及なども研究対象となっていた。そして、研究者の中には、日本の労働法や、日本社会の終身雇用制が、米国社会の労働慣行や、雇用慣行と大きく異なっていることを指摘する人々も出現していた。1980年代に入ると、米国政府はそのような知見に基づき、日本の非関税障壁を問題として、日米間の貿易不均衡問題を2国間の貿易に関する折衝のテーマとするようになっていった。そのような問題の中には、旧財閥系企業間での特別な商取引、日本政府の調達における旧財閥系企業などの優遇、電電公社のような元官立官営組織と旧財閥系企業との関係などの問題も、不公正取引の一種であるとして議論された。さらに、政府調達における米国企業に対する、必ずしも公平とは言えない取り扱いなども問題にされた。

1980年代の中頃になると、これらの日米間の貿易不均衡問題は、米国政府による政治的圧力に対する、日本政府の一方的で大きな譲歩によって、少しずつ修正がなされた。しかし、日本政府の譲歩は、いつも表面的で、日本の文化に深く根差した問題の解消には、全く着手しなかった。これは、第2次世界大戦に敗戦し、新憲法の制定を迫られた、当時の日本政府の関係者が、憲法の表現上の文言については、占領軍司令部の意向に沿う姿勢を見せたものの、細かな表現の隅々に以前からの日本のやり方や考え方に基づいた内容を潜り込ませて、抜本的な改革を先延ばしにしたことに似ている。そのようにして、国家の根幹に関わる問題に手を着けずに、米国政府との妥協を行う態度こそが、日本とその文化を守る方法であると、日本人自身も日本社会も確信していたからのようである。

1993年に米国で誕生したクリントン政権は、その政権発足の前段階から、対日本戦略を練り、当時の日本の繁栄の根底には、通貨の「円安」誘導「人口構成の影響」があると判断したようであった。クリントン氏が大統領に就任すると、予め政権幹部予定者達が声を揃えて主張していた「ドル高維持戦略」とは正反対の、「円高誘導政策」を取りはじめ、1ドル120円以上であった為替レートは、100円、90円と、円高ドル安に進み始めた。これによって、輸出に大きく依存していた当時の日本経済は、少しずつ停滞が始まり、高度経済成長期の毎年の賃上げによって、米国企業と比較して、すでに高くなっていた日本企業の労働コストは、さらに円高によって高騰し、日本企業の経営を圧迫するようになった。この時、日本社会の人口構成は、終身雇用制度によって労働コストが最も高くなる、40歳代半ばの働き手が生産年齢人口において大きな部分を占め、頭(高齢者)と足(若年者)が細く(少なく)、胴部分(中年層)が異常に膨れ上がった肥満型人間の体形となっていた。そのため、給与が高い中間管理職の労働コストが影響して、日本製品の価格は、世界市場で高騰し始めた。最終的に、ドル相場は、70円台まで下がった。米国社会の景気後退は、日本製品の価格高騰による競争力低下によって止まり、その後ゆっくりと回復を始めた。クリントン政権は、巨額の財政赤字を克服し、米国政府の財政を黒字化させた。

もう一つ、クリントン政権が導入した政策に、インターネットをテコにした経済の立て直しがあった。日本社会では、それまでの法律によって、インターネットを活用した事業の展開が容易ではなかった。さらに、日本社会にはそれまでの通信業の法的規制が強く、電電公社を民営化したNTTによる市場支配が強く、通信コストが他の先進諸国に比べて高かった。クリントン政権に助言を与えていたAT&Tの日系2世、グレン・フクシマは、日本社会はコンピュータ通信に遅れが著しく、米国企業の敵ではないことを示唆していた。さらに、米国社会では、インターネット網を活用した業務を事業化する流れが始まっており、米国社会は、対日本との競争で有利な状況にあった。今の言葉で言う、電子商取引事業である。1994年には、書籍販売やネットバンキングのサービスが軌道に乗り始めていた。

このようなクリントン政権の巧みな戦略により、1990年代後半からの日本の経済は、円高に伴う景気後退に苦しみ始めた。よく言われている「失われた10年」の始まりであった。この間、クリントン政権は、ソフトウェアの2000年問題に取り組み、1998年頃、基本ソフトウェアを含めて、主要なソフトウェアの2000年問題対応を終え、インターネットを活用した電子商取引に先導された情報技術の普及によって、好景気を迎えていた。大統領就任時には、第一次湾岸戦争の後遺症で、多額の赤字を背負っていた米国政府は、その政権の末期に財政の黒字化に成功し、約8パーセントであった失業率も4パーセント台にまで下がっていた。米国社会は、1990年頃に怖れていた大国の没落を避けられたのであった。逆に、1990年頃、米国に代わって21世紀には世界を制覇するかもしれないと見られていた日本は、1990年代の中頃から金融危機に見舞われ、経済が失速し始めていた。

そのような状況に陥った日本を立て直すために、2000年代の最初の10年間、日本の政府を動かしていた小泉政権は、米国で主流になっていた新自由主義経済を採用した政策を採り始めていた。つまり、それまでの日本を動かして来た、政府による産業の規制と、そのための複雑な法整備、さらに国民と産業の保護を重視したやり方を変え、経済においては市場における自由な競争を重視した、規制緩和方針に基づく国家の運営に舵を切り始めたのである。金融の自由化と都市銀行の統合、銀行と証券の壁の撤廃、郵便局の解体と郵便事業の民営化、通信分野において独占状態にあった元電信電話公社のNTTが保有する基幹回線網の同業他社への貸し出しなどであった。これらの新自由主義的政策は、短期的には、日本社会の経済状況を好転させた。しかし、日本経済全体を見ると、物価は継続的に下落し始め、デフレ傾向を示し始めていた。日本経済は、明らかに弱体化し始めていた。

この間、経済成長率がほぼゼロ・パーセントで、経済成長が止まると言う危機的な状況に直面しても、日本政府は教育制度や雇用制度の改革には、着手しなかった。企業からの要請が強かった労働者派遣に関する法律などは、派遣業務規制緩和の範囲を広げるなど、雇用者に有利な法改正を行ったが、崩れかけていた終身雇用制を維持している法律の改正には着手しなかった。個々の企業の企業努力に任せたのである。また、大学教育についても、ワシントン条約に従った教育制度の見直しについて経済産業省からの要請があり、世界標準である「アクレディテーション制度」の導入に関する調査・研究が進められたが、文部科学省や大学の抵抗も強く、本格的な導入とはならなかった。旧国立大学などの法人化や大学設置基準の見直しで、新大学の設立要件は緩和されたが、大学の財政基盤は弱まった。さらに、各大学はそれに対応して、特任教員や非常勤教員などの任用を拡大し、人件費の圧縮に力を入れるようになった。

さらに、教育分野においては、中央教育審議会の答申を受けて大学入学選抜方法の見直しが進められ、米国型のAO入試などの試験的導入も試みられた。しかし、大学事務局の人員不足と能力不足が原因で、入学希望者の本格的な選抜ができず、推薦入試と大きく変わらない入試制度になっているのが現状である。高等学校側も入学希望者を書類審査と面接を中心に選別されると、高校での教育課程に影響が出て、高校の教員にかかる負荷が増大するため、従来型の入試から大きな変更を望まなかったと言う背景もあった。中央教育審議会は、初等教育から高等教育までの教育の見直しが必要であるとして、生徒自身による積極的な学びを推進する教育への方針転換の重要性を指摘したが、教育方法の革新、入試の革新などが必要になるため、生徒の親や現場教師の反発は強かった。

雇用分野においても、終身雇用制を維持することが困難になっていることは、十分、認識されていたが、雇用側も、被雇用者を代表する労働組合側も、そして労働市場の管理監督を担当している厚生労働省も、本格的な改革に着手できなかった。特に厚生労働省は、年金システムの切り替えで発生した被保険者情報の登録漏れ問題などの対応に追われ、本格的な改革を検討する余裕はなかった。さらに、労働争議を取り扱う法曹界も、終身雇用制からの脱却は、法律の抜本的な改正を伴うことが予想されるため、積極的にそれを進めようとはしなかった。しかし、21世紀になって、世界経済はすさまじい勢いでグローバル化の道を歩み始めている。その状況下で、これまでと同様に終身雇用制を維持することは、日本経済の衰退を座視することに等しい。特に、企業経営者達は、それを肌で感じ取っている。少子高齢化が進む日本社会においては、世界市場で他国の企業と競争するために必要な人材を、国内で見出し、手当することは難しい。さらに、企業が必要とする人材は、時間とともに急激に変化する。その意味でも、一人一人の被雇用者に対して、その生涯を通じての雇用を保障する終身雇用契約は、経済合理性が見出せなくなっている。

日本社会が21世紀にも生き残り、発展し続けるためには、20世紀型の世界によく適合した日本社会の様々な制度を見直し、19世紀末の江戸時代から明治時代への変革の時、我々の先輩たちが封建主義から国民国家主義への国づくりを目指してやったように、新しい思想に基づき、新しい時代の新しい国家の体制を作り出さなければならない。明治維新から百数十年後に我々が直面している問題と、その解決策の模索は、百数十年前よりもはるかに難しい。それは、我々の近くに見習うべき手本がないからである。世界中の国々が、同じ問題に悩み、模索しているのが実状である。

(つづく)