9. 知と社会の発展

〜大学とギルド: 知と技能の専門化〜

中世後半のイタリアで、カトリック教会からも、領主からも命令を受けずに、その場所に集まった人々がお金を出し合って、自分達が聴きたい講義をしてくれる先生から話を聴くことができる「大学都市」が生まれました。その都市は、領主や教会ではなく、人々の集まりである大学が、共和国のような形式で執政官を選び、都市の運営を行う「自治組織」でした。カトリック教会からも自由であるため、その都市の中では、教会の主張に反することを言っても、「宗教裁判」にかけられることはありません。そのような大学において、キリスト教に関する「神学」、人間社会の法律に関する「法学」、人体や病気の治癒(ちゆ)に関する「医学 」、」、そしてそれ以外の専門的な知識に関する「哲学」などに関する講義が、ラテン語で行われるようになりました。当時のヨーロッパ諸国には、文法が明確に決められていた公用語がなかったため、古代ローマの公用語であったラテン語によって、教科書が書かれ、講義が行われました。

1088年にイタリアにボローニャ大学ができて、1200年代には、パリ大学やオクスフォード大学などを含み、9つの大学がヨーロッパ圏内で運営されていたと言われています。大学は、学生に対して講義を提供するだけでなく、大学で一定以上の知識を習得したことを証明する学位認定を与える権限がありました。学位認定は、どの大学で認定を受けてもよく、認定を受けた人は、どこの大学でも講義を行う資格があるとされました。全ての大学がラテン語で講義をしていたので、どの国の大学かは問題になりませんでした。また、パリ大学の先生だからと言って、フランス人であると言うことはありませんでした。学位認定を受けた人が、ヨーロッパ中から集まってきていたからです。

大学で学び、大学から学位認定をもらうことは、ある分野の専門家としてヨーロッパ中で通用する証明書をもらったことになりました。医者として働くため、法律家として働くため、神学者として働くため、そして大学の教員として働くために、学位認定は重要でした。ヨーロッパにおける専門職の制度は、最初、この大学を中心に作られてゆきました。そのようにして、人間社会における専門家育成の決まりごとが出来上がってゆきました。この大学を中心とした制度は、産業革命が終わる19世紀まで続きました。

16世紀末になって、ヨーロッパの社会が農業を中心とした古い中世から、都市に人が集まる近世の社会に変わろうとしていた頃から、ヨーロッパでは、大学を中心とした高度な知識を得るためだけの教育機関だけでなく、人間の日々の生活に密着したモノづくりのための技能を教え、その腕前を育てる仕組みも必要になってきました。中世の社会でも、パン作り、家づくり、靴づくり、チーズづくりなど、都市での生活に必要な物を、専門的に作り出す仕事が生まれ、それを担う人材を育成する仕組みが必要になっていました。そのような必要性から、ヨーロッパでは、「ギルド」と「職人育成の制度」が作られました。

「ギルド」は、職人の親方が作る協会で、そのギルドの一員であることは、一人前の職人であることの証でした。逆に言えば、ある仕事に就くためには、ギルドの一員である親方の下で修業をしなければ、仕事をすることはできなかったのです。親方の下で、一定期間以上働き、修行を積むと、一人前に親方の下で手伝いができる職人として生きることができるようになります。そして、そのような職人は、いろいろな場所で、いろいろな親方の下で手伝いを経験します。その経験を積み重ねて、他の親方達と同じような仕事ができるようになると、ギルドの一員として認められた親方になることができます。中世ドイツのマイスターは、そのようなギルドの一員である親方に与えられた称号です。

18世紀のドイツでは、中等教育を修了した人々に技術的に高度な知識を与えて、工場の技術者として働くことができる人材を育成するために、中世からあったギルドの制度に合わせた形式で、職業別の高等専門学校を作りました。当時のヨーロッパでは、まだ中世社会の名残が強く、大学で学ぶ人々のほとんどが、貴族階級の子弟や、それに準じる階層の人々の子弟でした。また、大学で教える学問は、物を作るための知識というよりも、物を考えるための知識を学ぶと言うことに重きが置かれていました。ですから、物を作るための技術に関する知識は、大学教育では軽んじられる傾向がありました。これに対して、技術系高等専門学校では、モノづくりのための技術そのものに関する知識に重きを置いて教育が行われました。これは、中世のギルド制度の中で行われていた、人材育成のやり方を、新しい技術の分野に応用したものと言えるでしょう。

(つづく)